
人間を理解することと、人間を裁くことは違う|判断・同一化・意識の在り方
私たちは、日々の生活の中で、他人についてさまざまな判断をしています。誰かの言葉に違和感を覚えたり、行動を見て疑問を抱いたり、ときには、その人の考え方や人格について評価することもあります。それは家庭でも、学校でも、職場でも、特別なことではありません。人間は社会の中で生きる以上、他者の言動を認識し、何らかの判断をしながら生活しています。
しかし、ある人の行為について判断することと、その人間そのものを裁くことは、同じなのでしょうか。
例えば、誰かが嘘をついたとします。その行為によって他人が傷ついたり、不利益を受けたりしたのであれば、何が起きたのかを確認し、必要に応じて責任を問うことには意味があります。しかし、そこから「この人は信用できない人間だ」「この人は駄目な人間だ」と、その人の存在全体を評価することには、別の認識の働きが含まれています。
私たちは、一人の人間がこれまで何を経験し、どのような環境に置かれ、何に触れ、どのような認識を形成してきたのか、そのすべてを知ることはできません。本人でさえ、自分自身に影響を与えてきたものを完全に理解しているとは限らないでしょう。それにもかかわらず、目の前の言動や限られた情報から、その人間全体を理解したかのように判断してしまうことがあります。
人間を理解しようとすることと、人間を裁くことは違います。ただし、これは「人を裁いてはいけない」という道徳的な教えを述べたいわけではありません。むしろ、私たちが当たり前のように行っている判断の背後には、どのような認識があり、どのような意識の働きがあるのか。そのことを考えてみたいのです。
※ 本記事は、一部を無料で公開しています。続きは有料でお読みいただけます。
行為を判断することと、人間を裁くこと
人間社会には、法律や道徳、倫理、慣習など、さまざまな規範が存在しています。私たちは、それらを通じて何が許され、何が問題とされるのかを学び、社会生活を営んでいます。誰かが他人の権利を侵害した場合には、法的な責任が問われることがあります。また、法律に違反していなくても、その行為が倫理的に適切であったかを検討することはできます。こうした判断は、社会生活において必要なものです。人間を裁かないという考え方が、あらゆる行為を容認することを意味するわけではありません。被害が生じているのであれば、被害を受けた人を守ることも、行為をした人に責任を求めることも必要でしょう。
ただし、ここには区別しておきたい問題があります。それは、行為について判断することと、その人間の存在そのものを評価することです。
例えば、ある仕事において必要な技能が不足していると判断することは、その仕事を遂行するための条件に照らした評価です。しかし、そこから「能力の低い人間だ」「価値のない人間だ」と考えるのであれば、特定の条件における評価が、人間そのものへの評価へと拡張されています。
また、一度の行為だけでなく、繰り返される行動から、その人の傾向や信頼性を判断することもあります。こうした判断まで否定する必要はありません。人間関係において、相手を信頼できるかどうかを考えることは、自分自身や他者を守るためにも必要です。しかし、信頼できるかどうかという判断も、特定の関係や状況におけるものです。その人間がどのような存在であるかを、すべて決定できるわけではありません。
私たちは、行為を問題にすることができます。必要な距離を取ることも、責任を問うこともできます。しかし、それらを行うために、相手という人間の存在そのものを否定する必要があるとは限らないのです。
裁く意識は、どこから来るのか
では、私たちはなぜ、他人の言動から、その人間そのものを評価するのでしょうか。その背景を考えるとき、個人の性格や道徳性だけに原因を求めることは、十分ではないように思います。私たちは、生まれたときから現在の価値判断を持っているわけではありません。成長する過程で、親や教師、周囲の大人たちの言葉や態度に触れ、社会の中で何が正しいとされ、何が間違っているとされるのかを学んでいきます。
そこでは、言葉によって明確に教えられることだけでなく、大人たちが日常的に示している反応も受け取っています。誰かの失敗を笑うこと。能力によって人を比較すること。社会的な地位や職業によって態度を変えること。あるいは、他人の言動を見て、その人の人格について語ること。そうした振る舞いに繰り返し接することで、人間をどのように見るのかという認識の習慣が形成されていきます。
そして、その大人たちもまた、以前の世代からさまざまな価値観や認識を受け継いできました。もちろん、すべての人が同じように育つわけではなく、受け取った価値観を問い直す人もいます。しかし、人間を比較し、評価し、ときには存在そのものを裁くという認識が、社会生活の中で繰り返し受け継がれていることは、考えておく必要があるでしょう。ここで重要なのは、誰が悪いのかを探すことではありません。人を裁く意識を持っている人自身も、そのような認識に触れながら生きてきた可能性があるということです。
私たちは、自分の頭に浮かぶ考えを、自分自身の判断だと思っています。しかし、その判断の基準や物事の捉え方の中には、過去に接してきた人々や社会から受け取ったものが含まれています。自分の考えだと思っているものが、必ずしも自分自身で一から形成したものとは限りません。そう考えると、人間を裁くという現象は、単に個人の道徳性の問題ではなく、人間がどのような認識を受け継ぎ、それを自分自身のものとして生きているのかという問題にもつながってきます。
ここまでは、人間を裁くという認識が、どのように社会から受け継がれてきたのかを考えてきました。ここからは、その認識が自分自身の思考として働くとき、意識の内側で何が起きているのかを見つめていきます。思考との同一化、意識の周波数帯、そして人間を理解することの限界へと、考察を進めます。